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2014年09月09日
2014年沖縄の旅(石垣島 その13)No.20
石垣やいま村を出るとすぐの所に名蔵大橋のあるところがアンパル干潟と言われるところです。
先ほどのやいま村と隣り合わせになっています。

山側(東方面)はこのような感じです。
この地名は、魚を捕る網を張る港「アンパルミジュ」に由来し、昔は干満を利用して魚を捕っていた場所だったそうです。
その後が残っていますね。

反対の海側(西方面)はこのような感じです。

いよいよ市内に近づいてきました。
途中でマンゴー農園があったのでちょっと寄り道して畑を見に行きました。
ひとつ一つ大切に袋詰めされていました。ちょうど出荷時期です。
ここで、旅の途中で食べるために、マンゴーを数個買いました。

市内近くにある観音崎に行く途中には有名な唐人墓があります。
とても立派なお墓ですね。
この唐人墓の真ん中に碑文がありこのように書かれています。

----------------------------------------------
石垣市唐人墓
この唐人墓には中国福建省出身者一二八人の霊が祀られている 中国人労働者(苦力)は、一六世紀以降世界各地に多数送り出されていた 一八五二年二月 厦門(モイ)で集められた四百余人の苦力(クーリー)たちは米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途次 辮髪(べんぱつ)を切られたり病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて遂に蜂起 船長等七人を打殺した 船は台湾へ向かう途中たまたま石垣島崎枝沖に座礁 三八〇人が下船した 八重山の政庁蔵元は冨崎原に仮小屋を建てて彼らを収容した しかし米英の兵船が三回にわたり来島 砲撃を加え 武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った 中国人等は山中に逃亡したが銃撃 逮捕され あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった 琉球王朝と蔵元は人道的に対応 中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し 島民も深く同情 密かに食糧などを運び給した しかし疫癘による病死者も続出した 死者は一人びとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた この間 関係国間の事件処理に対する交渉の結果、翌一八五三年九月 琉球の護送船二隻で生存者一七二人を福州に送還して終結した 中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた ここ冨崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が 戦後まで数多く点在していた 一九七〇年石垣市は異国の地に果てたこれらの不幸な人びとの霊魂を合祀慰霊するため 唐人墓建立委員会を結成 当市よりの補助 とくに中華民国政府の物心にわたる手篤いご支援 および琉球住民 在琉華僑諸賢のご芳志をもって一九七一年これを完成した
茲 に唐人墓の来歴を記すに当り 関係各面のご協力に対し 謹んで深甚なる感謝の意を表する次第である
一九九二年三月三十一日 石垣市長 半 嶺 當 泰
----------------------------------------------
とても痛ましい歴史ですね。
読みにくいので簡単にまとめた文章では
1852年、中国人労働者は中国本土から米国船でカリフォルニアに運ばれる途上、あまりにもひどい扱いを受けたため暴動を起こし、船長ら数人を撃ち殺しました。そしてその結果、船は石垣島沖に座礁しました。
島に上陸した380人の中国人労働者のうちの128人は、米国と英国の厳しい捜索の中で銃殺されたり自殺に追いやられたりしてその命を失いました。しかし島民や王国から食料や仮小屋などの助けを受けた生存者は無事に、中国本土に帰還することができました。そして唐人墓はここで亡くなった中国人労働者を祀るために建てられました。
ということです。
すぐそばの海岸が観音崎です。
先端に「琉球観音崎灯台」が見えます。

<琉球観音崎灯台>
この灯台は、昭和28年7月米軍によって建設され、同47年5月の本土復帰とともに海上保安庁に引き継がれたのち、数回改良されて現在の形になりました。
この岬一帯は、通称、冨崎(フサギィ)と呼ばれ岬の東方600メートル付近に冨崎観音堂ががあることから観音崎とも呼ばれています。
民謡「小浜節」にも謡われているフサギィとは、幸運を意味し、航海の安全をもたらす岬の名称とも言われていますが、岬に建つ灯台は、この名称にふさわしく沖を航海する船舶の安全を守っています。
灯台の状況は、電話回線でいつも把握し、事務所からも定期的に職員が巡回し機能の保全に努めています。
施設の概要
位 置 北緯 24度21分57秒
東経124度06分42秒
塗装および構造 白色 塔形 コンクリート造
灯 質 等明暗白色 明3秒暗3秒
光 度 3500カンデラ
光 達 距 離 11.5海里(約21キロメートル)
高 さ 地上~頂部 11メートル
水面~灯台 20メートル
管 理 事 務 所 第十一管区海上保安本部 石垣海上保安部
この周辺の海岸も綺麗ですね。




<続く>
先ほどのやいま村と隣り合わせになっています。

山側(東方面)はこのような感じです。
この地名は、魚を捕る網を張る港「アンパルミジュ」に由来し、昔は干満を利用して魚を捕っていた場所だったそうです。
その後が残っていますね。

反対の海側(西方面)はこのような感じです。

いよいよ市内に近づいてきました。
途中でマンゴー農園があったのでちょっと寄り道して畑を見に行きました。
ひとつ一つ大切に袋詰めされていました。ちょうど出荷時期です。
ここで、旅の途中で食べるために、マンゴーを数個買いました。

市内近くにある観音崎に行く途中には有名な唐人墓があります。
とても立派なお墓ですね。
この唐人墓の真ん中に碑文がありこのように書かれています。

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石垣市唐人墓
この唐人墓には中国福建省出身者一二八人の霊が祀られている 中国人労働者(苦力)は、一六世紀以降世界各地に多数送り出されていた 一八五二年二月 厦門(モイ)で集められた四百余人の苦力(クーリー)たちは米国商船ロバート・バウン号でカリフォルニアに送られる途次 辮髪(べんぱつ)を切られたり病人を海中に投棄されるなどの暴行に堪えかねて遂に蜂起 船長等七人を打殺した 船は台湾へ向かう途中たまたま石垣島崎枝沖に座礁 三八〇人が下船した 八重山の政庁蔵元は冨崎原に仮小屋を建てて彼らを収容した しかし米英の兵船が三回にわたり来島 砲撃を加え 武装兵らを上陸させてきびしく捜索を行った 中国人等は山中に逃亡したが銃撃 逮捕され あるいは自殺者が出るなどの惨憺たる状況となった 琉球王朝と蔵元は人道的に対応 中国人側の被害を少なくするよう極力配慮し 島民も深く同情 密かに食糧などを運び給した しかし疫癘による病死者も続出した 死者は一人びとり石積みの墓を建立して丁重に葬られた この間 関係国間の事件処理に対する交渉の結果、翌一八五三年九月 琉球の護送船二隻で生存者一七二人を福州に送還して終結した 中国ではこの事件が契機となって大規模な苦力貿易反対ののろしが打ち上げられた ここ冨崎原一帯には唐人の墓と称する煉瓦状墓碑を配した墓が 戦後まで数多く点在していた 一九七〇年石垣市は異国の地に果てたこれらの不幸な人びとの霊魂を合祀慰霊するため 唐人墓建立委員会を結成 当市よりの補助 とくに中華民国政府の物心にわたる手篤いご支援 および琉球住民 在琉華僑諸賢のご芳志をもって一九七一年これを完成した
茲 に唐人墓の来歴を記すに当り 関係各面のご協力に対し 謹んで深甚なる感謝の意を表する次第である
一九九二年三月三十一日 石垣市長 半 嶺 當 泰
----------------------------------------------
とても痛ましい歴史ですね。
読みにくいので簡単にまとめた文章では
1852年、中国人労働者は中国本土から米国船でカリフォルニアに運ばれる途上、あまりにもひどい扱いを受けたため暴動を起こし、船長ら数人を撃ち殺しました。そしてその結果、船は石垣島沖に座礁しました。
島に上陸した380人の中国人労働者のうちの128人は、米国と英国の厳しい捜索の中で銃殺されたり自殺に追いやられたりしてその命を失いました。しかし島民や王国から食料や仮小屋などの助けを受けた生存者は無事に、中国本土に帰還することができました。そして唐人墓はここで亡くなった中国人労働者を祀るために建てられました。
ということです。
すぐそばの海岸が観音崎です。
先端に「琉球観音崎灯台」が見えます。

<琉球観音崎灯台>
この灯台は、昭和28年7月米軍によって建設され、同47年5月の本土復帰とともに海上保安庁に引き継がれたのち、数回改良されて現在の形になりました。
この岬一帯は、通称、冨崎(フサギィ)と呼ばれ岬の東方600メートル付近に冨崎観音堂ががあることから観音崎とも呼ばれています。
民謡「小浜節」にも謡われているフサギィとは、幸運を意味し、航海の安全をもたらす岬の名称とも言われていますが、岬に建つ灯台は、この名称にふさわしく沖を航海する船舶の安全を守っています。
灯台の状況は、電話回線でいつも把握し、事務所からも定期的に職員が巡回し機能の保全に努めています。
施設の概要
位 置 北緯 24度21分57秒
東経124度06分42秒
塗装および構造 白色 塔形 コンクリート造
灯 質 等明暗白色 明3秒暗3秒
光 度 3500カンデラ
光 達 距 離 11.5海里(約21キロメートル)
高 さ 地上~頂部 11メートル
水面~灯台 20メートル
管 理 事 務 所 第十一管区海上保安本部 石垣海上保安部
この周辺の海岸も綺麗ですね。




<続く>
Posted by 夏が好き2 at 15:10│Comments(4)
この記事へのコメント
アンパル干潟は僕も見ました。
でも、こんなに大きな干潟だとは気がつかなかった。
潮が満ちていたのかなあ。
観音崎灯台の下にある写真は、灯台から降りた場所ですか?
上からの風景画しかみたことありませんでした。
それにしても綺麗ですねー
若ければ、海に入って行きたい感じです。
石垣島のこんな自然の風景 いつまでも残って欲しいです。
でも、こんなに大きな干潟だとは気がつかなかった。
潮が満ちていたのかなあ。
観音崎灯台の下にある写真は、灯台から降りた場所ですか?
上からの風景画しかみたことありませんでした。
それにしても綺麗ですねー
若ければ、海に入って行きたい感じです。
石垣島のこんな自然の風景 いつまでも残って欲しいです。
Posted by おきなべ
at 2014年09月09日 18:26

夏が好きさん こんばんは
名蔵湾に名蔵大橋 仮免の練習
オヤジと夜中走っていました
失礼なコメントします 名蔵湾は
沖縄県の土地開発事業で珊瑚が死んでしまった海です
昔は名蔵大橋の付近の海はもっと綺麗でした
赤土が滞積して遠浅になりました
観音堂灯台付近の海は死んでいます
僕にとってこの海の写真は赤土で破壊された海の色です
失礼なコメントで申し訳ありません
名蔵湾に名蔵大橋 仮免の練習
オヤジと夜中走っていました
失礼なコメントします 名蔵湾は
沖縄県の土地開発事業で珊瑚が死んでしまった海です
昔は名蔵大橋の付近の海はもっと綺麗でした
赤土が滞積して遠浅になりました
観音堂灯台付近の海は死んでいます
僕にとってこの海の写真は赤土で破壊された海の色です
失礼なコメントで申し訳ありません
Posted by namima
at 2014年09月09日 21:03

おきなべさん
逆に満潮時はどうなってるのかなと思っていました。
橋の周辺まで海水があるんでしょうね。
観音崎灯台の横の方から下の海岸に行けました。
綺麗だと思っていた海岸だけどnamimaさんの言われるように昔はもっともっと綺麗だったんでしょうね。
逆に満潮時はどうなってるのかなと思っていました。
橋の周辺まで海水があるんでしょうね。
観音崎灯台の横の方から下の海岸に行けました。
綺麗だと思っていた海岸だけどnamimaさんの言われるように昔はもっともっと綺麗だったんでしょうね。
Posted by 夏が好き at 2014年09月09日 21:43
namimaさん
全然失礼ではありませんよ。
その頃の景色を何も知らない僕が見た目だけで綺麗だとか言ってしまいました。
昔はこんなに赤くなく、海の中も珊瑚でいっぱいで水の色ももっともっと透明で綺麗だったんでしょうね。
逆に気分を悪くさせてしまって申し訳ありません。
昨年どこかの島でおじいと話してたときに、「この海は綺麗な色ですね」と僕が言うとおじいは「いやいや汚くなってしまった。昔は本当に綺麗だった」と言われたことがありました。
そのことを思い出しました。
よく分からなかったので調べてみたら東京工業大学の教授が6年前に論文で「アルパン干潟への赤土堆積による地形変化が甲殻類の分布に及ぼす影響について」を発表していました。
この中に「上流域での土地改良事業や周辺の土地利用の急変による赤土の流出がその原因の一つであるとしている。」とありました。
自然なことなら仕方ありませんが人工的にこうなったのはとても残念です。
全然失礼ではありませんよ。
その頃の景色を何も知らない僕が見た目だけで綺麗だとか言ってしまいました。
昔はこんなに赤くなく、海の中も珊瑚でいっぱいで水の色ももっともっと透明で綺麗だったんでしょうね。
逆に気分を悪くさせてしまって申し訳ありません。
昨年どこかの島でおじいと話してたときに、「この海は綺麗な色ですね」と僕が言うとおじいは「いやいや汚くなってしまった。昔は本当に綺麗だった」と言われたことがありました。
そのことを思い出しました。
よく分からなかったので調べてみたら東京工業大学の教授が6年前に論文で「アルパン干潟への赤土堆積による地形変化が甲殻類の分布に及ぼす影響について」を発表していました。
この中に「上流域での土地改良事業や周辺の土地利用の急変による赤土の流出がその原因の一つであるとしている。」とありました。
自然なことなら仕方ありませんが人工的にこうなったのはとても残念です。
Posted by 夏が好き at 2014年09月09日 22:04