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2014年10月18日

2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34

大神島から昼に戻ってきましたのでこれから、宮古島初日に一部廻った旧市街地の平良の歴史の後を「綾道マップ」にて続けて廻ります。
宮古島の旧市街地、平良の歴史的にとても素晴らしいところばかりです。
赤丸のところです。(オレンジ色の部分はすでに廻ったところです。)
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34

はじめに「仲宗根豊見親の墓」です。
海岸通りの大きな道沿いにあります。
看板に詳しく書かれているのでゆっくり読んでください。
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県指定史跡
仲宗根豊見親の墓
昭和31年2月22日指定

15世紀末から16世紀初めにかけて、宮古を支配していた仲宗根豊見親が、父親の真誉之子豊見親の霊を弔うために建造したと
伝えられています。
墓の構造は、宮古在来の「みゃーか」の形式と、沖縄本島の形式を取り入れた折衷の形となっています。
この時期における宮古と沖縄本島との石造技術の交流を示す墳墓です。
外観は前庭部を石垣で囲み、墓室外面は階段状に仕上げ、上端に石柱列を設けて有ります。
内部は円形になっていて、直径6m高さ2m余りのほぼ10畳ほどの広さで、中央に厚さ46cmの石垣が天井まで築かれ前後2室に
仕切られています。
手前は棺ならびに副葬品、奥には洗骨後の骨カメの安置所です。仕切中央は幅1,27m高さ1,70mの出入り口になっており、かつては
観音開きの扉がついていたことを示す上下に各2箇所ずつとどめています。
宮古の支配者としての仲宗根豊見親親は1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧に首里王府軍の先導をつとめ、また島内に
おいては井戸、道路、橋梁等の開さくをすすめたことで知られています。
なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。
           沖縄県教育委員会・平良市教育委員会
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仲宗根玄雅(なかそねげんが)は琉球国王・尚円王から豊見親に任命され、仲宗根豊見親玄雅(なかそねとぅゆみやげんが)となり、
八重山諸島に君臨しました。

沖縄には大きなお墓はありますがこのような石積みのお墓は珍しいですね。
墓地内には階段を降りていく井戸あり、今も水がありました。
宮古島やこの近辺の離島では遺体の骨を洗い清めて埋葬する文化があるそうです。
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34

仲宗根豊見親の墓に向かって右側に「アトンマ墓」があります。
仲宗根豊見親を始祖とする忠導氏(ちゅうどうじ)の一族ゆかりのお墓ですが、アトンマとは後妻のことで、正妻と同じ墓に入れることが
できなかったので、こちらに埋葬してあるそうです。
ここにも同じように詳しい看板があるので内容を見てください。
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平良市指定
有形文化財   アトンマ墓
                  昭和五十八年三月二十四日指定
                  所在地・平良市字西仲宗根(真玉)
忠導氏にゆかりのある墓で、同氏族の継室(アトンマ)だけを葬ったことから、俗に『アトンマ墓』と称されています。
墓の形式は、岩盤と切石を組み合わせた堀込み囲墓です。
この墓がいつ頃、建造されたのか明らかではありません。
「忠導氏系図家譜」によれば、十二世玄似(1764~1804)、十三世玄陳(1780~1840)、十四世玄安(1815~1871)、
玄盛(1824~?)らが、それぞれアトンマを迎えているが、その中で、十四世玄安(十三世玄陳とアトンマ金免嘉との子)は、
1863年から1871年まで平良ノ頭を務め権勢を誇った人物です。
このことから、この墓が改修・整備されたのは、十二世玄似~十四世玄安・玄盛の頃と推定されます。
アトンマ墓は、その側壁を築くのに原形の岩盤を土台に大型の切石を積み、墓室前壁面には比較的小さな切石を積みあげて
繊細な趣をかもしだしています。
また、通用門にはアーチ型の一枚岩をのせ、さらに通用門から墓室至る墓庭の中央には、階段につづいて幅約0.7メートル、
長さ約0.6メートルのゆるい溝が設けられています。
このように、墓室前壁面に岩肌を覆う形で石積みを施したうえ、溝を墓庭に配慮した墓は、宮古では極めて稀であります。
忠導氏は、16世紀初期に宮古を支配した仲宗根豊見親を元祖に数多くの頭職をだし、勢力・財力を誇った系統です。
その勢力・財力を背景に、宮古の風習として本妻と同じ墓に葬ることのできなかったアトンマの墓を設け、その霊をとむらった
ものと思われます。
昭和五十八年四月
平良市教育委員会
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2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34

さらに仲宗根豊見親の墓に向かって左側には、仲宗根豊見親玄雅の三男の「知利真良豊見親の墓」があります。
宮古独特のミャーカ墓と沖縄本島の横穴式の中間的な形式の墓で、看板にはこのように書かれています。
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県指定有形文化財(建造物)
知利真良豊見親の墓
                   昭和42年4月11日指定
1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧の際に、首里王府軍の先導をつとめた仲宗根豊見親の三男・知利真良豊見親の
墓として知られています。
知利真良豊見親は、オヤケアカハチの乱に父とともに従軍、のち次男祭金が4年在勤したあとをうけて八重山顕職となり、彼の地で
没したと伝えられています。
近接する仲宗根豊見親の墓とともに宮古在来の墓「みゃーか」から横穴式にうつる中間様式を示しています。
ツンプン(ヒンプン)の跡をとどめている所から、、俗に「ツンプン墓」とも呼ばれています。
保存状態がよく、墓の形の変遷、石工技術を知る上でも貴重な墳墓です。
前庭部を石垣で囲み、墓室外面は切石が三段に積まれ、上端には石柱列が設けられています。
この墓は平良頭職をつとめ、杣山惣主取でもあった宮金氏寛富が1750年ごろ築造したと伝えられています。
その子孫は宮古では宮金氏、八重山では長栄氏渡渉しています。
なお、この地域において許可なく現状を変更することは、県条例で禁じられています。
 沖縄県教育委員会
 平良市教育委員会
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2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34

ここから約400m北に向かっていくと「真玉御嶽」があります。
背後に御嶽があり、拝所がありました。
昔はこのそばが海岸でしたが埋め立てが行われて海岸から離れてしまいました。

案内によるとここは、豊穣の神様、竜宮の神様、水の神様が祭られているそうです。
三種の神器のひとつといわれてる、鏡も祭られているそうです。

由緒を調べてみるとこのように書かれていました。
昔、御嶽内には井戸(泉)があって、またガマ(洞窟)があり、気立ての優しい夫婦が住んでいた。神として祀られている。
また宮古で初めて潮水でアイズゥ(和物)を作った神として祀られている。
『御嶽由来記』は真玉御嶽の祭神を「男女かねとのまつ免か」と伝え、貧しい夫婦であったが、ふだん怠りなく精進し朝夕天道を拝していたので神徳が降り子孫繁盛し富貴の身となった。夫婦とも白髪の翁となるまで天道を祈り天寿を全うしたので死後真玉山に葬り御嶽を仕立て神と崇めた。子孫繁栄の神として崇敬されていると伝えている。
今日でも子宝の神として、また人の運気を司リユー(世=豊穣)を授ける神・航海安全の神として祀られている。
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34

ここからさらに100mほど北に進むと「人頭税石」があります。
看板にはこう書かれています。
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人頭税石(にんとうぜいせき)
大正10年に宮古島を訪れた民俗学者・柳田國男は「海南小記」の中で、この石は柱を「ぶばかり石(賦測石)と称し、
「この石で背丈を測って石の高さに達すると税を賦課された。」との伝承を紹介しています。
1637年、琉球王府は先島(宮古・八重山)に人頭税制を施行しました。
この税制は頭数(人口)を基準に税(粟・織物)を賦課するもので役人の見立てにより税を納めさせられたが、
1659年には、頭数の増減に関係なく「定額人頭税」制となり、更に、1710年には年齢(15才~50才)を基準として
税(男は穀物・女は織物)の賦課が行われるようになりました。

この人頭税制は1903年(明治36年)1月1日の新税法施行に伴って廃止されました。
何故、この石柱が「ぶばかり石=人頭税」と呼ばれたのか定かではありませんが、人頭税が年齢制限になる以前から、
即ち、役人の見立てで税を賦課されていた頃、あるいはそれ以前に「あの石の高さほどになると、税を賦課される」という
目安のようなものがあったかもしれません。
今日、この石柱については「人頭税石」のほか、「屋敷神」「陽石」「図根点」など多くの説が出されています。
平良市経済部商工観光課
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2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34

さらに200mくらい北上すると「湧川マサリャ御嶽(ばくがぁまさりゃうたき)」があります。
非常に分かりにくいところでした。
看板の説明によると
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この御嶽は 「 宮古の竜宮伝説 」 を伝える貴重な御嶽である。
昔、荷川取村に湧川マサリヤという漁師がいた。
ある日、漁に出てエイという魚を釣ったが、その魚がたちまち美しい女と化したので、マサリヤは心浮かれて女と夫婦の契りを結んだ。
その後、二・三か月たって、同じ場所で釣りをしていると、何処からともなく三人の童が現れ 「 母の使いで父を竜宮に案内するために
参った 」 と告げた。
サマリヤは不審がったが、童らがマサリヤの手を取って海に入ったかと思うと、たちまち金銀ちりばめた楼閣の中にいた。
母は前に契りを結んだ女に間違いなく、睦まじき顔でマサリヤを迎え、三日三夜、色々なご馳走を出して饗応した。
女は別れ際に涙を流し、 「 これをいつまでも私の形見と思って下さい 」 と瑠璃色の壷を手渡した。

マサリヤは夢の覚めた心地で家に帰ったが、竜宮でも三日三夜はこの世では三年三ヶ月の月日が流れていた。
瑠璃壷には神酒が入っており、呑めども神酒は尽きることなく口の渇きを癒し、天の甘露の如き美味な酒であった。
これを呑んだ者は無病息災で長命を保ち、それ故、マサリヤは家宝として秘密にしていたが、やがて村中の噂となり、
大勢の村人が壷を見ようと家へ押しかけて来た。

マサリヤは富貴におごり「この酒は朝晩とも同じ味でもう呑みたくない」と言ったとたん、壷は白鳥と化して虚空に舞い上がり、
東方をさして舞行きて、宮国村スカブ屋の庭木に留まり、姿を消したという。
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面白い話ですね。
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34

次は宿への戻り道方向になりますが南東方向に200m位進むと「ウブムイ御嶽」があります。
石でできた大きな鳥居とコンクリートで整地された広い敷地があります。
ここにも説明板がありこのように書かれています。
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ウブムイ御嶽
里御嶽として民間医者によって仕立てられた御嶽である。
東に向かって鳥居が建ち、御嶽の境内はコンクリートで舗装されている。境内の北側には主神マツカマを祀る祠が設けられている。
又、境内の西側には三か所の祭壇があって、香炉が置かれ、「真玉御嶽」「ツカサヤー(漲水御嶽)」「下地の赤名宮」「リゥグ座」
「トラヌパ帳の主」等の神々を迎えて遙拝する所となっている。
御嶽の名称は、御嶽の西側から北側にかけてガジュマルやクロツグなどの御嶽林が広く茂っていることから、ウブムイ(大森)と
名付けられたようである。
主な祭祀として、旧六月の「ユーダミニガイ」、旧九月の「ユークイ」、旧十月の「トゥスヌバンクウニガイ」などがある。
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2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34
2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34

さらに南東方向に100m進むと「カーニ里御嶽」です。
ここも分かりにくいところでした。
説明板ではこのようになっています。
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カーニ里御嶽
この御嶽は荷川取のカーニ里に所在する。
カーニ里の守護神を祀ったのが始まりと伝えられている。
御嶽の形態は、中央に30cm程の角石をイビ(御神体)として立て、その前方に香炉代りの平坦な切石を横たえ、
これを低い石積みで∩型に囲ってある。
その後方にはクロツグ・テリハボク・福木などの御嶽林が茂っている。
以前は御嶽のサス(神女)を中心に里人揃って祈願行事が行われていたが、サウのなり手が途絶えたため、
今は各個人で参拝しているようである。
この御嶽には二十数メートルの細い参道が北側・南側・東側に設けられていて、参道の両側には苔むした低い
石垣がつづき、昔のたたづまいを今に残している
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2014年沖縄の旅(宮古島 その13)No.34

<続く>



Posted by 夏が好き2 at 17:20│Comments(0)
 
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